感動の思い出だけが人生の財産である 生嶋 誠士郎

誰にもいくつかの楽しい思い出がある。生徒・学生時代であれ、ビジネスの世界に入ってからのそれであれ、財産としての貴重な思い出がある。そしてそれらを改めて思い出してみると、それらの〝楽しい〟思い出には必ず次のような形容詞なりコメントなりが付く。

「もう駄目かと思ったが、ラストで全員力を合わせて逆転したあの思い出」
「自分なりに限界までがんばったら道が開けた、あの苦しかったけど今は楽しい思い出」
「自分が必死になっていたら、だんだん周囲が力を貸してくれるようになったあの時の嬉しさ」
「落ちこぼれていたのを跳ね返して、ついにみんなの仲間入りをした時のあの感激」
「いや、あの時は辛かった、きつかった、限界だった、よく持ちこたえたなー、という〝楽しい〟思い出」

そう、もう気付いたことであろう。楽しい思い出というのは、実は苦しい(苦しかった)思い出とほぼ同義なのだということに。ちょうど肉体を限界までいじめて汗をかいた後の爽快感と同じく、精神の楽しさ・感動は、ちょいとした苦難の後にこそやってくる。そしてそれらを共にした仲間がいれば、その味わいもまたひとしおなのだ。

タイトルの言葉は感動の思い出だけがとあるが、これが正しいか否か異論はあろう。
しかし、いくつかの感動の積み重ねが人の表情に膨らみを与えることに異論はあるまい。
ならば、仲間と苦しんで共に戦って結果としての楽しい思い出を、少しずつ創っていこう。

『暗い奴は暗く生きろ』

著者
生嶋 誠士郎
出版社
新風舎/22世紀アート
出版年
2007年