入社2年目、1970年、筆者28歳の頃の造語。
社内報「かもめ」からの原稿依頼で「リクルートの発展の原動力は何か」に応えて考えた言葉である。上司が部下の手柄を横取り(縦取り?)しない風土を明確に感じていたので、ちょっと気取って〝組織の非搾取性〟。
社内風土として「今回のこのことの成就にあたっては誰が偉かったのか」が、いつも明確であった。上司はそれを的確に探し指名する役割である。横取りで(手柄の搾取で)部下の意欲を削ぐことはない。それはまだ社会経験が浅い筆者にとっても素晴らしいことに思えた。
まぶしい感じがしたと言ってもよい。それは組織の〝多数〟をその気にさせるものだからだ。以下は簡単な真実。
組織の多数がその気になれば(少数だけがその気になるよりは)業績が上がるわけで、結果としてその組織長の評価も上がる。さすれば、横取りなどして部下から恨まれる愚を犯すよりは、部下を演台に上げたほうが得策であるし、見た目も自然で美しい。
そしてさらに、横取りして得た一時の会社の覚えのめでたさなどというものは、すぐに「あいつは部下の評判が悪い」「あのマネジメントでは次の昇進は無い」という評価で返ってくるわけで、差し引き中期的には大きなマイナスなのである。
この言葉を考えた頃にそういう下世話なことを思ったわけでは無く、ただまぶしかった、きれいだったからなのだが、後年他人に説く時には「理念でなく損得で考えてもよいから」と言うようになった。手柄を搾取しないことだけでなく、全体のモチベーションマネジメントとか、正しい評価手法とかすべて「それが経営の損得だ。利益に直結する。理念が如何であれともかく社員をよい顔にして欲しい」という言い方をした。
まことにそう思う。
そして〝組織の非搾取性〟のようなことは、制度ではなく風土である。「制度より風土」という言葉もリクルートにはあったが、人の合理的集合体である株式会社にあっても、あり様は人の心根次第なのだということに思い至る。その自覚があれば、すべての組織体に希望はある。
『暗い奴は暗く生きろ』
- 著者
- 生嶋 誠士郎
- 出版社
- 新風舎/22世紀アート
- 出版年
- 2007年